本学学生が「令和6年能登半島地震」の災害ボランティアに参加
本学では地域ボランティアに取り組む学生が多くいます。
本学経営学科3年の萩元蒼唯(あおい)さんもその1人。
萩元さんは今年2月の約1週間、能登半島地震で「震度6強」を記録した石川県七尾市に災害ボランティアとして参加し、倒壊家屋の災害復旧活動などにあたりました。
―現地入りするきっかけは
私が中学1年のとき、熊本地震を経験しました。熊本から約70キロ離れた福岡県柳川市の自宅でも大きな揺れを感じました。そのときの思いが胸にずっとあり、いつか災害ボランティアに参加しようと決めていました。
―2024年1月1日、能登半島地震が発生しました
「人助けをしたい」。地震発生の瞬間を伝えるテレビ映像を見てそう思いました。
「ボランティアに行くけん」と居合わせた両親に告げると、「行っておいで」と両親。
私の背中を押してくれました。
―それからどう動きましたか
ネットでボランティアセンターに登録し、行く準備を進めました。「かかる経費はすべて自費」と申し込み時に連絡が入りました。宿泊先として金沢市のビジネスホテルを自分で予約しました。
―現地で感じた思いは
2月後半の約1週間、石川県七尾市の被災地に入りました。「復興がまったく進んでいない」。愕然としました。頼りとする自衛隊員も見ませんでした。復旧作業を通じ、被災者約10人と言葉を交わしました。皆落ち込んでいました。
―災害復旧作業ではどんな作業をしたのですか
学校をベースに動きました。ボランティアの人々はグループに分かれて、被災者と一緒に倒壊家屋に向かい、がれきの撤去作業に取り組みました。たんすや家電製品など、おろす順番があり、分別もしました。
毎日、車に同乗して被災者の家に向かうのですが、道路は破損しており、う回の連続で、時間がかかりました。トイレでは用意されたバケツの水を使いました。昼ごはんも自分で用意し、金沢市から買ってきたものを食べました。
―大変な作業だったと思います
1週間のうち数日、チームリーダーを務めました。十人ほどに指示を与えるのですが、「人をまとめる」のに苦労しました。行動力が取り柄ですが、皆、自分より年上。
阪神大震災(1995年1月17日)や東日本大震災(2011年3月11日)の災害ボランティアを経験したベテランもいました。70代の人もおり、重い物の運び出しは若い人が率先して受け持ちました。
傾いている家もありました。倒壊家屋の中にプロパンガスのボンベがあったりもしました。「地震で揺れたら、家の中からすぐに出てきてください」と仲間に指示を出しました。大学生の私でも、体力的にきつかったです。
―1日の作業時間は
1日に倒壊家屋を2、3軒回ります。ただ、実際の作業時間は規定に基づき、午前が2時間、午後も2時間程度しかありませんでした。もっと作業をしたかったです。
※金沢駅に午前7時集合、午後5時解散。車で七尾市まで移動するのに片道2時間
―能登半島地震からまもなく1年を迎えます
一刻も早く復興できたらと思いますが、正直、現地の人だけは無理です。政府、国民挙げての支援が必要だと感じます。
―印象に残る言葉はありますか
被災者の多くは「死ぬかと思った」と語りました。おばあちゃんから「遠いところからありがとう」と何度も感謝の言葉をいただきました。
市役所の中堅職員さんは「初めての経験。どのように動いていいのかまったく分からない」と打ち明けてくれました。
―今後はどう動きますか
今夏、大学内で開催された「防災士養成講座」を受講し、「防災士」の資格を取得しました。
9月に発生した「奥能登豪雨」のときも、ボランティア仲間から「能登に行くか」との連絡が入りました。自分の就職活動を早く終わらせ、能登半島の被災地に必ず行きます。